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English in マルタブログ!

Yet Another JUGEM.
イギリスからのクリスマスカード

届いたカードの封筒を見たら、切手の脇に押されたスタンプに「祝、カズオ・イシグロ、2017年ノーベル文学賞」とあるではありませんか!

なんかうれしい。

彼の本は(もともと寡作の作家ですが)何冊か昔に読んだことがあり、その時に「日本人だけれど5歳でイギリスに移り住み、イギリスの教育、国籍を得た人間が英語で書く小説とは、どういうものになるのだろう。彼のアイデンテテイはどういうものなんだろう。」と興味を抱いた記憶があります。

生まれも民族も言語も超えた普遍的なテーマを掘り下げ、普遍的な共感を目指した作家がこうしてその仕事を認められたのは何かとても象徴的な気がします。

| 読書すること | 16:50 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
「タマちゃんのおつかい便」から学んだもの。

「人生ってのはよ、たった一度きりの命をかけた遊びだからよ。何でも好きなことやったもんの勝ちだべさ。」

「そもそも人生に『失敗』なんてねえべさ?人生にあるのは『成功』と『学び』だけだって。」

「つまんねえ生き方すんのは、わが家では禁止。」

これらの言葉は、友人から回って来た、森沢明夫著「たまちゃんのおつかい便」の中に出てくる、主人公のたまちゃんのお父さんの言葉です。思わずノートに書き残してしまったくらい心に響きました。他にも、たまちゃんのおばあさんやお母さんの言葉にも。

「人生なんてあっという間だから、一分一分を楽しんで、なるべくいい気分で過ごしなさい。それが幸せに生きる極意なの。」

「人生の『小さな冒険』に踏み出せない人って『勇気』が足りないんじゃなくて、本当はきっと『遊び心』がちょっぴり足りないだけなんだよね。」

「人生はたった一度きりの遊びのチャンス」

「人生に辛いこと、悲しいこと、嫌なことがあっても、その事象の中には必ず『いい部分』が隠されているから、それを見つけ出してしっかりと『いい気分』の喜びを味わうの。」

たまちゃんという女の子は、大学を辞め、地方の過疎地のお年寄りたちが「お使い難民」になっているニュースを見て、その人たちに物を届ける「たまちゃんのおつかい便」という仕事を起業する、というお話。

そんなたまちゃんに、地元でずっと自動車整備工をしている男の子や、お母さんが亡くなった後に、フィリピンの若い女の子と再婚しちゃったお父さん、どうしても違和感が拭えないフィリピン人のお義母さん、引きこもりの女の子、そしてたくさんのじいちゃん、ばあちゃんが絡む、心あたたまるお話。

作家が読者に伝えたい事が溢れてる。

こんないい言葉が小さな村の普通の人々の口から出てくる。

そんな人々に愛されながら、たまちゃんが成長していくし、たまちゃんの存在が村の人々も変えていく。

つまり、「教養」も「お金」も何なんだ?

作者の森沢さんは若い頃にバイクで地方のそんな小さな村を訪れては、作者曰く「ばあちゃんナンパ」して居候させてもらいながら、村人たちの豊かな自然、ものすごく美味しい食べ物、さりげなく支え合う人々の暮らし、などを知り、それを貯金にして作品を書いている、と言う。

つまり、その「貯金」がなかったら書けなかった?

どの作品も根底に流れるメッセージは、

「生きることへの励まし」

「本当の豊かさ」

「温かい人間同士の交流」

友人が貸してくれなかったら決して出会わなかった本。

感謝です。

「たまちゃんのおつかい便」

     ー森沢明夫著 (実業之日本社、出版)

| 読書すること | 11:01 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
野生のエルザ
昔、「野生のエルザ」という本がベストセラーになり、映画にまでなりました。
知らない方のために簡単なあらすじを。

アフリカに住んでいた英国人の婦人ジョイ.アダムソンは、親を亡くした子どものライオンを「エルザ」と名付けて、育てます。
はじめはネコのようだったエルザも、あっという間に立派な大きな雌ライオンに育ち、その大きなライオンとアダムソン婦人の家族は楽しく暮らしていました。
ある日、それではエルザのためにならないと、婦人はエルザを野生に帰す事を決心します。
いろいろな試行錯誤を重ねて、ようやく無事にエルザは野生に帰り、もう姿を現す事もなくなりました。
うれしさ半分、、、さみしさも半分。
そして何年かの月日が過ぎ、、、。

ある日、エルザが現われます。
婦人に自分が産んだ子どもたちを見せに来たのです!
しばしの再会を楽しむと、納得したようにエルザはアフリカの草原に帰って行きました。婦人も「これで良かったんだわ。」とやっと安堵するのです。
という感動の実話です。

で、何が言いたいかというと、今日、沖縄の比嘉先生からこんなメールが届きました。(本人の了解を得て転記します)
「お元気ですか?先週の金曜日に明海大卒業生の所さんが奥様と娘さん連れて道場に来ましたよ。
立派なお父さんになっていました。
こうして会いに来てくれるのはうれしいですね。
明海の学生達には私も修行中だったため、至らぬ指導の下、かなり厳しくやっていましたから、きっとネガテイブなイメージなんだろうなあ、なんて思っていました。
この間来た、同じ明海大卒業生、加藤ファミリーも遊びに来てくれて本当に嬉しかったです。
皆、立派な社会人、人の親になり、彼らの大学生活のほんの一部に関わらせてもらった事に感謝と責任を感じます。
私が彼等に与えた影響はたいしたことではありませんが、
合気道が彼等に与えた影響は、生活、仕事、生き方、家庭を持つ事....きっと計り知れないものだったと思います。
我々は、製造業や農業、その他の職業と違い、物を作った達成感はありませんが、人材を育成するという時間のかかるもの、それらに必要な根本となるものを合気道を通じてやっていることを再認識しました。感謝」

期せずして、きのうは鶴ちゃんからも、こんなメールが届きました。(本人の了解なし)
「自分がプレーヤー(俗な言い方ですが、分かりやすく)で権威を保ち続けるより、自分より遥かに素晴らしい後進を育てる指導者でありたいです。
同時に、自分自身も表現者でありたいですが。」

私が、この二人にどんなに感動したか、わかっていただけるでしょうか?
まだ自分の事で精一杯であろう30代の若者たちが、
人を育てる、後継者を育てる事を考えている。
これも「合氣」のなせる技でしょう。
私にとっては、比嘉先生や鶴ちゃんたちが、
「野生のエルザ」なんだけど。

ごめんね、いつも合気道の話で〜。

(写真は、研究会の時の比嘉先生と鶴渕さん。)











| 読書すること | 17:32 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
いま、ここで生きていること。
荒天の武学ーその4

光岡 「過緊張は自然の働きとは真逆の,固定した状態や滞りが生じた、変化を留めてしまう状態です。
緊張に対してよく言われるのがリラックスや脱力ですが、これもあまり良くない状態です。なぜならリラックスや脱力には生き生きとした生命の働きがありません。身体が生きようとする気持ちを放棄することだからです。この場合は、自分の身体の生きようとする働きを怠っているに過ぎません。自分の身体や生命に対する、甘えと怠慢です。
緊張でもリラックスでもない。気持ちを解放して伸びやかに行う。自分の身体をある考えに基づいて動かすのではなく、どうなるかわからないけど伸び伸びと動いてみる。
力を入れる必要はありませんし、抜く必要もない。力を用いる必要もなければ、特に動きや身体について考える必要もない。
緊張して力を用いる習慣は、ここのここで生きていることに対してまじめに注目するより、これから行おうとしていることに対してまじめになり過ぎてしまうからです。
つまり、今ここで生きつつあることよりも、これから先にある目的や目標の方が重要になっているからですが、今ここで生きつつあることを捨ててまで目的や目標に向かうことなど本当はできないはずです。
武術で言いますと「今は斬られて死んでも次の一手で何とかしよう。」と言ってることに等しい訳ですから。」

(荒天の武学ー内田樹、光岡英稔、集英社新書より)

私は光岡先生の言葉を武学としてのみ読んでいるわけではなく、この言葉の中には、人が生きていくためのヒントがたくさん隠されている。
「緊張でもリラックスでもなく、気持ちを解放する」
なんてことは現代人にはこの上もなく難しい。
「考えない」なんてことも難しい。
でも「のびのびと、わくわく」は私の大好きな気持ちで、これをキーワードにして、これまで自分の仕事に生かしてきた。
わくわくした時、
人は学習能力を飛躍的に向上させる。
わくわくした気持ちを他者と共有した時、
生きている今この瞬間が輝く。










| 読書すること | 13:49 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
荒天の武学−その3
内田 「合気道では後ろ両手取りというのがあります。相手が後ろに回り込んで両手を取る、という動作ですが、武道の本来からすれば後ろを取られるということは、もう斬られているということですから、初期条件としてこれを設定することはありえない。
でも、これは非常にいい稽古なんです。
(中略)相手が後ろから両手を取りに来る。視覚情報がほとんどない。接点における触覚情報を頼りにするしかない。(後略)」

 光岡 「稽古と実戦を、想定と現実をよく分けておく必要があるでしょう。そこを取り違えてしまうと、稽古でやっている事が、実戦で適用すると言う考えになってしまう。
稽古は稽古としてあって、その時に(実戦で)本当にできるかどうかを決めるのは、やはり稽古で養った自分でしかない。
だから時々「投げてもらってもいいですか」といったふうにお願いされることがありますが、意挙(注:中国武術)においては稽古としてはありえないことです。
意挙が相手を投げないのは時間の無駄だからです。一瞬の位を取るかどうかが問題な時に投げる事に意味はありません。
少なくとも武道として本質に迫るなら、せめて一瞬で崩し、潰すように投げたい。基本的に受け身を取れるのは、受け身を取れるように投げているからですよね。(後略)」

(荒天の武学ー内田 樹、光岡英稔、集英社新書)

こういう物を読んで唸っている自分は、
やはり「武道おたく」だろうか?

「せめて、一瞬で崩し、潰すように投げたい。」

なんという美しさ。








| 読書すること | 18:31 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
荒天の武学ーその2
光岡 「現実をとらえていこうとした時に、思考が干渉しない自分のところまでアクセスしないといけない。思考を干渉させないでおけるだけの力がないと現実を把握することができない。つまり、生き残っていけない。」

 内田 「どうやって思考の干渉を妨げて思考するか、これは一大テーマですよね。」

 光岡 「できないんですけどね。(笑)でも、人間にとっては一大テーマです。思考を使って思考をしない。言葉を使って言葉を打ち消していく。ここは難しいところです。人間には言葉を使って言葉を増長させていく傾向があります。ですから釈迦は「黙っておきなさい。」と言葉を用いず言った訳ですから。」

 内田 「しかしながら実際に教えていてわかるのは、人間と言うのは「言葉で生きている」ものだということです。手取り足取り教えなくても、たった一言で動きががらりと変わりますから。」

 光岡 「それは共感できる部分を生得的に共有しているからではないですか?つまり実感が可能なのは、すでに共有している部分をなぞるように言葉が走る時だけですよね。」

 内田 「不思議なもので、言葉一つで変化するんですけど、言葉の影響力は時間が経つと消えてしまう。言語的な入力は身体に残らないのです。逆に身体を通じて出力したことは蓄積していく。身体ってある意味すごく鈍感ですよね。惰性が強い。ただの一言で瞬間的に変わりもするけれど、すぐ元に戻ってしまう。」

 光岡 「頭脳が影響している身体が鈍感なのです。本性の身体は、すごく頭がいい。ご飯だって「消化しよう」と思わなくても消化してくれるわけですから。実は頭はいいけれど、一方で脳の作り出したバーチャルな身体があって、その部分がすごく鈍感なのです。習慣で培った思考上の身体に戻るから抜け出せないのでしょう。」

(「荒天の武学」内田 樹、光岡英稔、集英社新書)

 私には2人の話がすごく良くわかる。 なぜなら音楽に言葉はいらない。 言葉で説明できない物と一緒に私はこれまで生きてきたから。楽譜は譜面であって、文章ではない。言葉に変換しないで生き続けている物も私たちの世界には存在している。脳を経由する時間を越えて身体に伝えられる物が確かにある。



| 読書すること | 12:33 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
荒天の武学
マルタで一階に住んでいたマルコに紹介されて
Face book友達になったエイドリアンが数ヶ月
日本に来ていた。
「新しい英語学校の事で会えたら会いたいけれど。」
と言っていたけれど結局、彼はずっと関西にいてとうとう会えずじまいでマルタに帰ってしまった。エイドリアンは前にも日本に滞在して武道を学んだらしく、その事もふくめてぜひ会いたかったのだけれど、今回は縁がなかったのかな。

エイドリアンが最後のメールで薦めてくれた本が、
「荒天の武学」

どうやら彼はこの日本語の本を読破したらしい。

ようやく先日、読み終わった。
光岡先生の言葉が、びんびん響いた。

少しずつ抜粋してご紹介します。

「相手に攻め込み過ぎてもいけない。
  逃げ腰や引け腰にならず、
  それでいて居着いてもいけない。」

          ー「荒天の武学」 内田 樹、光岡 英稔
                 (集英社新書)

            


| 読書すること | 19:21 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
今年の直木賞
今年直木賞を受賞された朝井リョウ氏が受賞に際しての記事が朝日新聞1月22日に出ていました。かいつまんで、ご紹介します。

「ノートの片隅、先生が赤ペンで走り書く文字は、ところどころ繋がっていたり、省略されていたりしていて、小学生の私には少し読みづらかった。それでも私は必死に解読した。毎日書いていた日記に、先生と言うたったひとりの読者がどんな感想をくれるのか、それが本当に楽しみだったのだ。
「日記というよりも、まるで小説を読んでいるみたいです。」
ある日、先生からこんな感想が返ってきたことがあった。その赤い文字が、頭の先から足の指までに染み渡っていった感覚を、私は今でもはっきりと覚えている。その文字だけをエンジンにして、原稿用紙百枚近くの小説を書いた。ただただ、自分の文章を先生に読んでもらいたかった。
あれは卒業式の日だったかもしれない。先生は便箋三枚に及ぶ感想文を返してくれた。私は貪るようにその感想文を読んだ。そして何周目かで気がついた。
便箋の中ではどの文字も繋がっていない、省略されていない。これは自分ひとりだけのために向けられた文章なんだ、と。
私はこの時、先生が、「先生と生徒」ではなく、ひとりの人間同士として、私と向き合ってくれたのだと思った。そして、それを可能にしたのは、文章であり、小説なのだと知った。
ものすごいことだと思った。大発見をしてしまったと思った。文章を武器にすればどこにでも行けるし、何にでもなれるのかもしれないと、小学六年生の私はひとりで興奮していた。
私の小説の原点はそこにある。
私はいま、向き合いたい世界がたくさんある。向き合いたい人がたくさんいる。だから私は小説を書く。小学六年生のときのあの大発見をもう一度追い求めるようにして、私はこれからも小説を書き続けていくのだと思う。」

「その赤い文字が、頭の先から足の指までに染み渡って行った感覚を、私は今でもはっきりと覚えている。」
ここを読んだ時に私の胸もぶるるんと震えた。
誰かに認めてもらえたという喜び。
そして自分の尊敬する人と何かを共有できたというこの上ない幸せな感覚。
 この小学校の先生はすごい。素晴らしい。
一人の生徒に「何かを武器にすれば」という発見をさせたのだから。彼の受賞作品「何者」そしてもう一つの作品「桐島、部活やめるってよ」も読んでみよう。
武器にするのは文章だけでなく何でもいい。
それが本当の武器でなければ。

若者よ、自分の武器を持とう!
それは学校の勉強だけじゃ絶対に作れない。


| 読書すること | 13:37 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
本を読む事「エネルギーと原発のウソをすべて話そう」
美浜に住む、震災で家が傾いた友人がこの本を貸してくれた。
著者の武田邦彦氏は大地震のあと、福島第一原発の事故についてブログで発信し続け、一日40万件を超えるアクセスとなり、多くの日本人の指標となった人物だ。東大を出て、原子力一筋に生きて来て、内閣府原子力委員会、および安全委員会の専門委員、文部科学賞科学技術審議会専門委員をつとめている。

本のはじめにはこう書かれている。
「一度ウソをつけば、そのウソを隠すためにウソの上塗りをしなければならなくなります。その積み重ねの幻想の上で国民は生きる事を強いられます。そして最終的にウソを隠しきれなくなった時、そのツケは国民が払うことになります。このたびの福島原発の事故がまさにそれだったわけです。今後の日本のエネルギー政策についても同様の事がいえます。事実を見て、覚悟を決めてウソを廃し、日本にとっての最善を考えねばなりません。」
彼は「私はもうほとんど学会から引退したような人間なので
なんのしがらみもないので真実が言えます。」と書いている。

「専門委員というのはいかにも無力ではありましたが、私があの場に参加しながら、安全基準を変える事ができなかったのは事実です。今考えればあの時、あの場で、安全委員会の委員長を殴り倒しでもしていれば、大きなニュースになったかもしれないとも思います。どちらにしても私を含め、原子力に携わる人々は失敗しました。
責任を痛感しています。」と続く。

第四章では、いかに「責任逃れ」の体制ができあがったか、
そして「原子炉だけを守る」という思想ができあがったか。
(つまり、周辺住民を守る事は考えていなかった)
そして、福島原発は地震の後、全て「想定通り」に進んだ。
(つまり、全ては予想想定内で対処方法はあった、
 のになされなかった)
何の「想定」もしていなかった政府がついた限りないウソ
について書かれている。
また「地震予知」や「原子力」にからむ利権や、「補助金」のためにはウソでもなんでもつく東大教授の事もはっきり書かれている。

そして最後に「原発事故の根底にある日本の問題」として
*「曖昧さ」が何も決める事ができない社会を作っている事。
*科学及び哲学などの学問大系がそれぞれに
 しっかりしていない事。
*日本の教育の理科系が「何かを作る」という具体的な
 ことに教育の中心が置かれ、科学の「思想」や
 「原理原則」がおろそかにされている事。
*「学問や表現の自由」がアメリカやヨーロッパから
 輸入されたものであり、日本社会自らが血を流して
 獲得したものでないので、学校で習ったものの、
 それが実生活に取り入れられる社会には至っていない事。
などが述べられている。

「技術は思想ではありません。しかし、思想なき巨大技術は崩壊します。」(そしてまさに崩壊したのだ)

そして、あとがきはこうしめくくられている。

「三つの夢を見ているような気がします。  
   原発が無惨な姿をさらしている.....。 
   放射能は安全だった.....。 
   日本は民主的法治国家ではなかった.....。」

........これが夢ならどんなによかったか!
あなたはこの本を読んで何を考えるのだろうか。
著者がもしロシアに住んでいたなら、
確実にもう消されているだろう。

私たちはかなり危ない船に乗って波間を漂っている。

「エネルギーと原発のウソを全て話そう」武田邦彦 著 
     産經新聞社から出ています。

| 読書すること | 11:53 | - | trackbacks(0) | pookmark |
本を読む事ー「心の野球」桑田真澄
ちょうど一年前の夏に、桑田真澄さんが「球児たちへ」と題してこんな提案を新聞に載せていました。私は野球は全く詳しくありませんが、この提案にはうなずけるものがありました。
「野球を好きになる七つの道」
1、練習時間を減らそう
2、ダッシュは全力10本  
3、どんどんミスしよう 
4、勝利ばかり追わない   
5、勉強や遊びを大切に  
6、米国を手本にしない  
7、その大声、無駄では? 

こんな私でも高校野球の球児たちが平日4〜5時間、休日7〜15時間もの練習をしている事くらいは知っています。そして100本ダッシュや1000本素振り、なんていう言葉も知っています。そしてミスをしたりチャンスで三振をした選手には監督やコーチが怒鳴りつけたり、罰練習をさせたりするのも聞いた事があります。
桑田選手も小学生野球をしていた頃には指導者に殴られて顔が腫れたり、殴る所がなくなるとケツバットが猛スピードで飛んできたりしたそうです。試合に勝つことを至上の目的にすると指導者は手段を選ばなくなる、と桑田選手は分析します。
「体罰を受けた選手は体罰を与える指導者になる。体罰は連鎖します。理不尽な体罰を繰り返す指導者や先輩がいるチームだったら他のチームに移る事も考えてください。我慢することよりも、自分の身体と精神を守る事の方が大切です。」

桑田選手は現役引退後、早稲田大学院スポーツ科学研究所に入学し主席で卒業しました。その早稲田で戦前に監督をしていた飛田穂洲さんが提唱したのが「野球道」という言葉です。
飛田先生がこの言葉に込めたのは当時、軍国主義まっしぐらに進む軍部や政府が野球を敵国の競技としてにらまれがちだったのを何とか選手たちの精神と身体の鍛錬としてしっかり自己管理をし勉強してきちんと学校を卒業する生徒を育てようとする思いだったのです。
それがどこかで曲がりくねって1000本ノックに象徴される猛練習、武士道に通じる精神主義、指導者や先輩への絶対服従.....。
「野球道」は選手を罵倒することを恥じず、体罰をためらわない指導者の精神的な支柱にさえなってしまった、と桑田選手は言います。
そしてヤジを飛ばすよりも 相手や仲間にリスペクトの気持ちを持って、何より野球をする事を楽しくしよう!と提案しています。

そんな桑田真澄さんに共感して読んだのが
「心の野球」ー超効率的努力のススメ
です。幻冬舎から2010年6月に発行され、この本の売れない時代に何と翌7月には5刷されています。
本の中で私が一番感動したのは、松坂大輔投手と同じ右肘の「トミージョン手術」を受け、壮絶なリハビリを経て、661日ぶりにマウンドに帰る桑田投手が、このゲームに出かける前に自宅でリハビリのために始めたピアノを弾いた、という所でした。ピアノを弾いてから東京ドームに向かった桑田投手は右肘をピッチャーマウンドにつけてつぶやいたのです。
「野球の神様、聖地に戻ってくる事ができました。ありがとう。」
本の中でもこう書いています。
「僕らは生かされている。意味のないことなんてない。神様は乗り越えられる試練しか与えない。」
私にとっては、桑田真澄はピアノが弾けるという事によって他のスポーツ選手とは全く異なる人物となったのです。



| 読書すること | 12:03 | - | trackbacks(0) | pookmark |