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歯痛、その後

  • author: YOKO
  • 2017.11.28 Tuesday

先週の水曜日からうずき出して、金曜日に歯医者さんで麻酔してレーザーで切開していただき、抗生物質と痛み止めをもらって帰宅。それなのに、土曜日はもちろん、日曜日も月曜日も痛み止めが切れると痛み出す。

まだ、疼く。なんで〜、と悲しくなる。

食べるのも苦痛、食欲も失せる。そのうちに痛み止めを飲んでも効かなくなり、さらに落ち込む。生きる気力も失せる。合気道のお友達が私の大好物のアップルタルトを焼いてくれて少し元気になる。それでも痛い。それが日曜日の夜。

月曜日、レッスンがあったのでマイクに痛み止めをもらってきてもらう。顔の曇る私を見てマイクもゲンナリする。火曜日の夕方に予約が入っているので、そこで何を言われるのか、されるのか、と怖くて心配。月曜日の夜も枕元に薬を置いて夜中に痛みで目が覚めたら飲むことにして早めに寝る。

そして今日、火曜日の朝。薬も飲まずに朝まで寝たことに驚く。そして合気道の稽古がある、というだけでシャキーンと身体にスイッチが入る。そういうお仕事があることに心から感謝。

稽古の後、歯科医院へ。先生、色々見てくれてこう説明してくれた。「抗生物質はすぐには効かないのです。全身に行き渡るまで3〜4日はかかってしまうので、ちょうど今日くらいが最大に効き始めたところ。後2〜3日の辛抱です。」と、消毒しただけで治療は終わる。

たった5日間の激痛で本当に何も考えられないような精神状態になってた。やっと希望がさしてくる。頑張れ私の体!それでも女性は男性よりも痛みに強いと言うから、これがマイクだったらもっと参っていたと思う。痛がる私を見ていただけで参ってるし。

そんなわけで、もうちょっとで元気になります!

皆さんも歯は大切になさってください。

極めて個人的な話

  • author: YOKO
  • 2017.10.25 Wednesday

昨年のクリスマスはケアンズにいました。

オーストラリアは紫外線が強い事で有名です。

帰って来てから何か所か虫に刺されたところがいつまでも痒く(数ヶ月)、右のほおの下にポツンとふくらみができ、そのうちなくなるかと思っていたのが、かなりはっきりとしたポツンになり、今年の8月の9ヶ月目の乳がんの術後検診の時に主治医の美人の女医さんに聞いてみました。

「急にできたホクロは皮膚ガンの可能性が高いと聞いてちょっと心配で。」

「脂肪か何か、心配はないと思うけれど、気になるなら形成外科の先生を紹介するので診てもらったら。」

「はい、そうします。」(随分と私も用心深くなったもんです)

 

形成外科の先生は若いハンサムな先生でした。

(こういう事を書く事自体が本当にオバサン)

「気になるなら切除して病理検査しましょうか?」

顔.....ですからちょっと考えましたが、

「お願いします。」

ということで、その日から2ヶ月後の昨日、手術して来ました。

 

しばらく待合室で待たされて、やっと名前が呼ばれました。

「血圧、測ります。」

「はい。」

「普段どれくらいですか?」

「すごく低いです。」

「緊張してますか?」

「してません。」

「上が150ですよ。」

「あら、じゃあ緊張してるんですね。」

「麻酔を打ちます。ちょっと痛いですが、これを我慢すれば、後は平気ですから。」で始まった手術。

 

確かに麻酔が効いて何にも感じないで手術は始まりました。

切除したらしき後、先生が縫合し始めたのがわかります。

皮膚と皮膚を縫い合わせては縛って糸をカット。

それが結構な時間でした。

先生の一生懸命な呼吸が耳元で聞こえ、皮膚と皮膚が縫い合わされては糸を縛ってカット。これが何回も続けられるうちに何だか不思議な感覚になっていきました。

「こんな風に痛くもなく皮膚が引き寄せられるなら、

他のたるんでる皮膚も引っ張り上げて!」

なんて事を考えながら、先生の息遣いを聞き、縫い合わされる皮膚の感覚と糸をカットする音。

ああ、なんて官能的なんだろう、などと思っていたら、

「はい、終わりました。」の先生の声で現実に戻りました。

 

今日の実感。

外科医の仕事は誠に官能的なのです。

本当に手術が好きなんだろうなあ。

一週間後に抜糸です。

 

今の心配は、「傷が残るか」なんて事ではなく、

もし、右のほおが少しリフトアップされたら、

左側がたるんで見えるんじゃないかと....。

もし、そうなっても気がつかないフリしてね。

「乳がん、、って事ですか?」

  • author: YOKO
  • 2016.10.26 Wednesday

合気道が週2回、ジムが1回、ゴルフの練習で400球、体調絶好調と思ってました。

毎年、健康診断を受ける、かかりつけのクリニックに「エコー検査やってます」の張り紙が。

看護婦さんが「そうなんです。月に2回、専門医が来てここでやってくれます。いい先生なんですよ。」

先生は「そうなの、あまり宣伝してないの。予約、入れときましょう!」

マンモグラフィは抵抗があって、乳がん検診なんてずっとやっていなかったので話のノリで予約を入れ、当日も合気道から夕方帰って、届いた生協の食品を冷蔵庫に押し込んだ時に予約を思い出し、

「あ、予約してたんだ。ちょっと行ってくるね。」と小走りで行きました。

 

 先生がエコーで画像を見ながら滑らせて、

「右、よし、と。」

左になってちょっと手の動きが一箇所で何度もぐるぐる。

何枚か画像を撮り、

「見ててわかったと思いますが。」と先生。

「えっ、癌って事ですか?」

「多分」

「そんなに見つかっちゃうものなんですか?」

「まあ、300人に1人ですね。1年前に来ていたら見つからなかったかもしれないし、半年前でも私の体調が悪かったりしたら見落としたかもしれません。ちょうどいい時に見つかりましたね。」

あっけに取られるほどのビックリポンです。

ちょうどいい頃加減、なんて柿の実じゃあるまいし、、、

ぽかんとした気持ちで帰宅しました。

家族もぽかん。

娘は「まだ、ガンとはっきりしたわけでないし。」

自分も落ち着いていましたが、突然、みんなの日常の暮らしの世界から外されたような、自分の生活がクニャリとへし折れたような。

こんなのって、あり?

 

「楽しいことを書く」をモットーにして書いてきた私のブログですので、この事を書くのには迷いました。しかし、これを伏せて社会生活を続けるのにも無理があり(先の予定、約束を曖昧にする等)

いろんな方へ同じお話を最初からするのもちょっと、、、

「聞いた?」「知ってる?」と噂されるのもちょっと、、、、

「私、聞いてない。」と言われるのもちょっと、、、、

と考えた結果、書くことにしました。

病状も治療も人によって全く違いますので、書き方には細心の注意を払います。

誰かのお役に少しでも立てれば、、と思います。

あ、私は元気です!

 

(舞浜さくら会の若き女子たちと。みんなの宝です。)

大腸ポリープ検査結果

  • author: YOKO
  • 2016.06.22 Wednesday

2週間後の検査結果を聞きに先日、行って来た。

大丈夫と言い聞かせながらも、やっぱり心配だった。

診察券を一番に出したのに1時間待ち、中待合室でさらに15分ほど待ち、「よほどこれからの治療方針とか説明されるのかな。」とか思い始めた頃に名前を呼ばれる。

 

「結論から言うと癌ではなかったです。

 よかったですね。」

以下、先生の丁寧な説明。

 

「血便の原因は、虚血性腸炎。

これは原因ははっきりせず言って見れば腸の風邪のようなもので、自然に治ります。

切除したポリープは若年性ポリープ。

この年齢で若年性ポリープができるのは非常に珍しい、というか今まで私は見た事がありません。学会に報告するほどではないけれど、とっても珍しい。もしかしたら昔からずっと持っていたのかも。

若年性ポリープとは癌化しないので、結果から言えば切除の必要はないポリープだったけれども割と大きかったので切除して細胞検査をしました。場所は結腸の肛門から7cmの所でしたから、これがもし癌だったら人工肛門をつけなければならないケースでした。

とってもラッキーだったのです。お友達のように症状がなく発見されたら手遅れ、というような方もいらっしゃるのは事実で、これはもう本当に幸運だった、運が悪かった、の世界。

何とも申し上げようがないのが現状です。」

 

このような説明を画像や細胞検査結果の書類を見せてくれながら30分近くしていただいた。

 

よかった!

 

精神的に辛い1ヶ月だったけれども、こういう経験をして「一瞬にして人生が変わる」出来事がいつ我が身に起こっても不思議ではないんだ、と思った。

「生きている命」がいつか終わりになる事も実感した。

これまで「当たり前」だった事の一つ一つをもっと大切にしようと思った。

マイクが「I'm sorry.」と言った時の気持ちを説明してくれた。

「自分が思っていたよりもずっと早く死んで逝く事は、始めはショックだったけれど、これは案外、気持ちの整理はつくと思った。どうやって逝くのかはもちろん問題だけれど、もう逝かなきゃならないならそれは仕方がないとあきらめがついた。ただ君がこれから一人で生きて行く、と言う事......これだけは耐えられなかった。今まで2人で楽しんできたいろんな事をもう2人で楽しめない、1人では楽しさは半分にもならない、あるいは楽しくもない。そうさせてしまう事が何とも自分を許せなかった。」

これを聞いて、私がそうなったらやはり同じ事を考えたと思った。

死んで行く自分よりも残していかなければならない相手の事がどんなに辛いか。そして私達は、思っていたよりも結構、「夫婦」だったんだと思った。

マイクに言ってやった。

「もう優しい奥さんは終わり。自然じゃないし。

 疲れたから元に戻すね。」

「確かに不自然だった。」

そしてふたりで笑った。

 

 

 

 

大腸内視鏡検査

  • author: YOKO
  • 2016.06.20 Monday

5月17日の事だった。

マイクが「明日、病院に行く。」

「うん?どこか具合悪いの?」

「何回か血便が出て、調子が良くない。」

 

この会話で、私達の平凡な毎日が一瞬にして激変した。翌日の午後、いつもお世話になっている先生の所へ。いつもの明るい顔で「じゃ、内視鏡検査しましょ。」と先生。そこでの内視鏡検査は土曜日のみ、と言われて、「土曜日はちょっと仕事が。」「じゃ、J病院は何ヶ月も後になっちゃうからU病院に紹介状を書くから、今からすぐに行って。」と先生。その足でU病院に行き2週間後の内視鏡検査が決まる。

道場のすぐ裏だし、なぜかちょっとほっとした事を覚えている。

 

しかし、それからの2週間は辛かった。お互いに、それほどこたえていないように振る舞うも、いろいろな事が頭の中をよぎって、とんでもない状態になる。たかが大腸ポリープだろうに、なんでこんなにショックなのかと言うと、これには意味がある。

マイクの知人がちょうど2年前に何の自覚症状もなく大腸癌が見つかり、その時には余命3ヶ月。本当にあっという間に亡くなってしまった。その時に共通の友人から「何の自覚症状がなくても大腸内視鏡検査を受けた方がいいよ。」と口がすっぱくなるほど言われ、私とマイクは病院に行ったのだけれど、バカみたいに「何の症状もないのですが内視鏡検査を受けたいのですが。」と医師に言うと、「それだと保険がききませんよ。」と言われて帰ってきてしまったのだった。

「あの時に受けていれば。」という後悔に襲われる。

 

ネットで大腸ポリープや大腸癌を調べる。

「自覚症状がない。」とどこにも書いてある。

 

一度、夕食を食べながらマイクが「I'm sorry.」と言って涙ぐんだ時には、奈落の底に突き落とされたようにショックだった。どんな事をしでかしても決して「アイムソーリー」と言わない人間がその言葉を振り絞って言ったのだから。

最悪の場合や、これからの闘病生活が来るかも知れない事を考えたくなくても考える。

あんなにコロリと爆睡していた私が眠れない。

マイクはびっしょりと寝汗をかいて夜中に着替える。

そんな状態も、それから血便も出なくなり、気持ちが悪いのもおさまり、だいぶ楽観的な気分になって検査前日を迎えた。

2〜3日前から繊維質の食物をとらないようにし、前日から朝、昼、晩、と「検査用前日食」というパッケージの食事をとる。検査当日は朝7時から、下剤を2リットルにうすめたものをゆっくりと3時間くらいかけて飲む。そしてトイレに行って透明な液が出るまで飲み続ける。10時半に病院に行き、11時に検査室へ。

私は外の椅子で待つ。待つ事30分が経過してまだ終わらない頃からまた不安がこみ上げる。

 

40分ほどして先生が出て来て小ビンの中の小さな赤い組織を見せてくれた。

「これを採りました。ポリープだと思いますがちょっと大きいので組織検査に出します。結果は2週間後に出ます。今日は1泊入院して下さい。」

それからマイクが出て来て車椅子で病室へ。

 

 

マイクにとって生まれて初めての入院。看護婦さんたちは皆さん親切で、「日本語大丈夫ですか?」とか、「イギリスの方なんですか?」とか、いろいろ質問されてマイクはとってもうれしそうで、「よかった」と思った。その日は点滴のみで食事はなし。翌朝、おかゆを食べてお昼前に退院した。それから数日は、病院食のような食事を作り、私の優しかった事ったら!

 

今まで当たり前だった事が全て有り難く思う。

眠れる事。

食べられる事。

目が覚める事。

散歩が出来る事。

仕事に行ける事。

朝の空気を吸える事。

新緑を眺められる事。

音楽を聴ける事。

友達と会える事。

合気道の稽古が出来る事。

全ての事が本当に尊い事だったのだと思う。

 

でも、まだこの時点では来月の事も夏休みの事も、今年のクリスマス休暇の事も、考える気にはならなかった。それでも何かマイクの物を買おうとすると、「買っても無駄になったらもったいない。」なんて冗談を言えるくらいにはなっていた。

ちょうどその時、テレビでは小林麻央さんのニュースばかり.....。

胃瘻

  • author: YOKO
  • 2010.08.03 Tuesday

母のおかげで、「胃ろう」という医学的処置がある事を初めて知った。
点滴で栄養分を送り込むのは長期間には適さない事。
鼻からチューブを通して栄養分を入れるのは、チューブが劣化するので2〜3週間に一度、取り替えなければならず、それは患者にとって苦痛を伴う事。チューブがまちがって気管に入る危険性もある事。
点滴は確かに弱った患者の腕に注射針を射し続けるのもだんだん困難になるだろう。鼻からのチューブは、医学生たちは自分たちも一度は試して体感してみるそうだが、みんな涙目になり苦しくてとても耐えられるものではないそうだ。
それに比べれば「胃ろう」の処置が一番良さそうな事は何となくわかる。「胃ろう」という言葉も親の介護を経験した人達の間では、皆さんご存知のようで、「胃ろうにすると、どんどん太ってぱんぱんになり、つやつやになっちゃうのよ。」と言う。そう、点滴では高カロリーな栄養分を入れても腕や足の皮膚はみるみるしわしわになった。
でも、どうしても引っかかる。
「つやつやになっちゃうの。」ではなくて、その前に考えるべき重大な事があるように思われてならない。

私が医師に、「母は延命措置を拒否していますが、胃ろうはそれには入らないのですか?」と聞いた時には、きっぱりと言われた。
「入りません。栄養を入れなければ、それは餓死する、という事ですから。」あまりに、きっぱりと言われたので、
「そうなんだ。」と思ったのを今でも思い出す。

ところが最近、ある記事の中にこう書いてあるのが目に飛び込んできた。
「胃ろうを延命措置とするかどうかは個々の医師の判断による。初めは一時的な処置として発明された医学の進歩が、今、世界の終末医療の現場で新たな倫理的な問題を引き起こしている。」
気管を切開して呼吸器をつけるのも、心臓を人工心肺にするのも延命措置だ。なぜ胃ろうが、それに当てはまらないのか。

我が家に17年間居たアビシニアン猫のルーリーだって、最後は一切の食べ物も水もとらなくなり、1週間、お気に入りの椅子のクッションの上でじっとしたまま、何も乱れる事もなく、最後に階段を一段一段上がって娘の部屋に行き、娘のベッドの上で静かに亡くなった。
その時、私は「見事だ。」と思った。
実に見事だった。
私だって、その時が来たらそうしたい。
昔は、お年寄りはみな、「食べ物がのどを通らなくなって、布団にふせたままになり、やがて亡くなった。」
のが普通だった。自然な死だった。

「お食事ですよ〜。」の声とともに看護婦さんが、「胃ろう」のチューブのふたを開け、太い注射器でどうっとお湯を注入し、それから点滴のようにパックから高カロリー栄養分を注入する。私にはショック以外の何ものでもなかった。
そんな事をされたら、「いつどうやって死ねるのか!」と心底思った。心臓か肺がやられるまで「死」は無期延長でお預けとなる。死んでいこうとする肉体に人工的に栄養分を入れ続けるのは、倫理に反しないのか?「安らかな死」に反しないのか?餓死するのと、心臓か肺がやられて死ぬのと、どっちが苦しいのだろう。

もう30年もたつが、大事な友人を癌で亡くした。
もう食事が取れないほど衰弱しているのに、栄養分はどんどん彼の体の中に送り込まれ、結果として癌細胞も養分を得て元気になるばかり。体の中で完全にバランスが崩れ(としか、私には思えなかった)苦しみ抜いて、最後は彼に取り付いた癌が爆発して壮絶な死を遂げた。

暗い話題ですみません。



記念礼拝

  • author: YOKO
  • 2010.05.24 Monday

母が通っていた教会で、私たち家族と信者のための「記念礼拝」をしていただいた。その教会は東横線新丸子駅の近く、市街地の建物の間にある小さな教会だった。母は父の死後、教会に通い始め2001年にここで洗礼を受けてキリスト教徒となった。
そうなった理由は測り知れないが、一つには母が18才で初めて教員として教えた小学校4年生の生徒の1人と何十年か後に再会し、その時にその女の子が牧師の妻となっていた事も大きかった。私の父が亡くなった後、軽い鬱になった母を救ったのが教会と、マイクと私に連れられて行く海外の街を歩く事だった。
ちょうど一年前にマルタにいた時、復活祭のさ中だったバレッタで言葉もしゃべれない母が、1人で家の近くの「イギリス教会」に出かけて行き、しばらくして「おそるおそるドアを開けたら、みんながもっと中へ来てここにお座りなさい、と親切にしてくれたの!もうこれで本当に満足、思い残す事はないわ。」と笑顔で帰って来た。臆病な母のその時の行動力と、紅潮した顔は忘れられない。

新丸子教会の中に入った。
そこには私たちの知らない母の信仰の世界があった。
祭壇に置かれた母の聖書にはびっしりとタグが貼られ、線が引かれていた。「ここまで読み込んでいらっしゃるのを知りませんでした。」と牧師さまもびっくりされていた。
牧師さまから、母の生い立ちから子供時代、青春時代、結婚の経緯、出産、子育て、晩年に至るまでを丁寧に皆さんにお話しいただいた。
「昨年、マルタから帰ってきてからは本当にお元気になられたのです。」
「大変に控えめな方でしたが、その奥には純粋で情熱的なものもお持ちで、私はそれを羨ましく思っていました。」
そういう牧師さまの言葉が胸にしみた。
2時間あまりの心のこもった「記念礼拝」だった。
冒頭の、
「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。」
の言葉から最後の、
「主の家に私は帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」
の言葉まで、私は涙が止まらなかった。




Past Away

  • author: YOKO
  • 2010.05.08 Saturday

5月6日は舞浜さくら会木曜日の初日でした。
緊張して迎えましたが、みんなでいい汗かいて、みんなの顔が輝いて、それはうれしいスタートとなりました。
なぜか携帯を不携帯で稽古に出かけ、帰宅したら兄からたくさん連絡が入っていました。幸い首都高は信じられないほどにすいていて夕方に病院に到着。
もう苦しそうな呼吸を止めて安らかな母がいました。
父と母はもう何年も前に縁のあった鶴見医科大学に献体を決めていて、父同様に母も「紫雲会」からのお迎えの車で医科大学に運ばれて行きました。
爽やかな新緑の午後に、ちょうど私もマイクもフリーの日に気をきかせて母は旅立ちました。家庭訪問中のゆうに連絡すると「ママは大丈夫?マイクさんと一緒?」と私を気遣ってくれました。
母の通っていた教会の牧師さまに来ていただき、お祈りをしていただきました。後日、教会で家族のお別れの式があり、親戚とはお別れ会をします。2年後に帰ってきたら納骨をします。
「葬儀はしない。」は母の固い遺志でした。
そんなわけで、お香典等のお気遣いはなさいませんよう、どうかご理解いただけたらうれしいです。
肉体から解放されて今は母がすごく近くに感じられます。今頃、首を長くして待っていた父と再会して、さっそく夫婦喧嘩をしてると思います。

父と出会って、私を産んで、育ててくれてありがとう。
マルタを誰よりも愛してくれてありがとう。
また行きましょうね。


悲しすぎる

  • author: YOKO
  • 2010.04.22 Thursday

転院した病院にマイクと母を見舞った。
狭いベッドに寝かされて、窓もない壁を母は見つめていた。
スタッフの人々は「忙しいです」と背中に書いてあるように動き回り、
「あの、」という声もかけにくい。
母の肩を抱き寄せて話しかけているうちに、突然、涙がぼろぼろ出てきた。
自分の中では、母はもう半分向こう側にいきかけているのに、こうして母は生きてる。生きてる、とは言えない状態で生きてる。
生きてる肉体、命を尊いとも思う。
この状態の母を哀れとも思う。
自分の中で消化しきれない。

そして、これが月30万の入院という現実。
何か間違ってない?この国の老人医療。
悲しすぎるよ、日本の医療制度。
この国で死んでいくのは、こんなにも寂しい。

今朝も「寝たきりの母親を介護していた息子が、病院で母親を
刺し殺して、自分も自殺した。」というニュースが流れた。
世の中がだんだん冷たくなって行く。

気持ちが立ち直った頃には、また病院に行かなくては。
母があそこで生きている、という事をどう納得すればいいのかがわからない。
母のような患者が一体、何人いるのだろう。
悲しい家族が一体、どれだけいるのだろう。

とうとう浦安まで、ぐしょぐしょのままで帰って来た。
マイクが背中をとんとんしてくれた。
たまには役にたつよ、マイク。






質問

  • author: YOKO
  • 2010.04.01 Thursday

きのう兄と行った病院での面談で、いろいろ母の
状態について質問された。

「会話はできますか?」
「いいえ。」
「家族がわかりますか?」
「いいえ。」
「見たものを認識しますか?」
「いいえ。」
「聞いた事を理解できますか?」
「いいえ。」
「歩けますか?」
「いいえ。」
「寝返りがうてますか?」
「いいえ。」
「トイレに行けますか?」
「いいえ。」
「口から食べられますか?」
「いいえ。」
「車いすに座っていられますか?」
「いいえ、ベルトでしめないとずり落ちます。」

兄の答えるのを聞いていてせつなくなる。
つまり何もできない。
母は心配症で小心者で用心深い人だった。自分の生活、体、食べるもの、運動、お金の管理、信仰、友人、家族、いろいろな事をそれはそれは気をつけてまちがいのないように生きてきた。
誰でも多かれ少なかれそうだろうけれど。
そうして注意深く、一つ一つ築き上げてきた人生、生活というものが、ある日、一瞬にして崩壊する。誰もそんな事は起こらないと思いながら生きてきて、ある日、まるで「砂上の城」のように消えてしまうのだとしたら、ずいぶんとせつないではないか。
一瞬にして、その人が大事にしてきた家具、衣類、絵画、本、写真、思い出の品、食器、植木、などなどがもう意味を持たないのなら、一体なにが意味を持つのか、と考えた。

誰かの心の片隅に残ることでしかないのかもしれない。
「いい人だった。」とか
「親切な人だった。」とか
「楽しい人だった。」とかで。








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