演武稽古で学んだもの
- author: YOKO
- 2018.09.22 Saturday
みんなで「短刀操法」を演武大会に向けて稽古して来ました。
一から十までの動きをみんなが覚えてできるようになって来ると、次は「揃えること」や「スピード」が求められるようになります。
一から五までの動きは正座して技を行います。
これは中高年には中々、つらい動きです。
演武に向けた稽古がだいぶ進んだ頃に一人のシニアの方が「降りる。」ことになりました。理由を伺うと「正座がきついので、立ち上がるのに時間がかかって皆さんに迷惑がかかるので。」
確かに、その方の動きは他の方に比べると正座する時、立ち上がる時に、少しよろよろとしていました。
「自分は無理」と考えているからか技の覚えもイマイチでした。
でも私は今まで全員でやって来たことを「よろけるから」の理由で一人ドロップアウトさせるのは本意ではありませんでした。
出来栄えや優秀演武賞を狙うのであれば、もちろんそんな人間はカットです。
しかし、ここでその方をカットしたら、次から次へ、「少し動作が遅い」人間が出て来てしまいます。
16人が8人になれば理想的な演武になるかもしれない。時間も1分以上、短縮できるかもしれない。しかし、そんなものは少なくとも私は望んでいない。それでは小学校の合唱コンクールで、「あなたは音痴だから口だけパクパクして歌っている振りをしなさい。」と言う落第教師になってしまいます。
「降りる」の話を聞いた次の週、その方に「遅くてもいいから、全員の動きをあなたの動きに合わせますから、みんなでやりましょう。」と申し上げると、彼の表情がパッと明るくなって「それでいいならやります!」
それからの彼、メキメキと動きを工夫し、進化を遂げ、挙げ句の果てにはみんなの演武について「こうした方がいい」とまでアドバイスするまで積極的になりました。それをみんなで大爆笑した頃から、グンとみんなの気持ちがまとまりました。
私は彼が見える位置で号令をかけます。
一般的な「短刀操法」よりもかなりゆっくりです。
しかし、思いがけず、そのゆっくりから見えて来るものもあったのです。
動きと動きの間に一瞬の「間」ができる。
その「間」の時間に「相手とつながる気持ち」が途切れると、おそらく誰が見ていてもすぐわかるのです。
「最後まで集中を切らさない」「相手と氣を合わせ続ける」そして「間違えない」それは中々、簡単な事ではありません。
しかし、それが出来た時、今までやって来たことを綺麗に白紙に戻し、あたかも今日、初めて号令を聞きながら「短刀操法」をやるような真っさらな気持ちで、(つまりいろいろな事を頭に巡らせないで)無心な気持ちで演武が出来たなら最高です。
「出来ない」ことから見えて来たもの、学んだものは大きかったのです。
ドロップアウトしそこなった方に感謝です。
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